心・禅・美的コラム『般若心経』を説くvol.2
翠蓮でございます。
前回は、『般若心経』の冒頭部について説いていきました。
『般若心経』とは大般若波羅蜜多心経600巻という膨大な経典から重要な点を276文字に纏めたものが『般若心経』です。
般若心経の思想は「空」(くう)について前回の続き『般若心経』の中から、
について説いていきます。
書き下しは次のようになります。
「舎利子よ。色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり。受想行識もまたかくの如し。」
舎利子とは、ブッタの弟子の一人です。『般若心経は』前回登場した菩薩が舎利子に向けて説いている経典なのです。したがって「舎利子よ」と最初に呼びかけをしています。
次に、「色不異空」=「色は空に異ならず」について説明します。
前回は、「色」と「空」との例えでカラーの色として説きました。五蘊の一つですが、仏教では「色」を「形あるもの」として捉えます。
ここで、菩薩は「形あるものは空である」と述べております。つまり実体がないことと同じであると説いております。
例えば、目の前にコップがあるとします。その時点では、姿・形がありますが、何かの衝撃を加えると割れてしまい、姿・形がなくなります。これが空の思想の一つです。
詳しく例えると、氷があるとします。その時点では冷たく形のある氷でも高温にさらされると氷が溶け、姿・形がなくなります。そして水となり蒸発してしまいます。
次に、「空不異色」=「空は色に異ならず」について説いていきます。
これは、上記の「色不異空」を踏まえて、「実体がないが故に一時的に存在している」と捉えます。
例えば、コップは衝撃を加えれば壊れる存在であるから、衝撃を加えなければ仮に存在できていると考えます。
氷は氷の存在でいられるためには高温にさらされず、溶け出さなければ存在できているのです。
つまり、私達人間に例えると、今を元気に生きているということは、「寿命」という天寿を全うするまで「現世修行」を行うよう姿・形をお借りして、この世に仮に在しているにすぎず、と捉えることが可能です。
これが「空不異色」です。
次に「色即是空 空即是色」について説いていきます。
これは、仏教の根本にあたる考えであります。
「色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり。」
この意味を分かりやすくすると以下のようになります。
「色=空、空=色」
「色という姿・形あるものは空であり、仮に存在しているが、空の中で仮に存在しているからこそ姿や形がある」
というふうに捉えることができます。
これが「色即是空 空即是色」であります。
例えば、人間はいつか死に至りますが、だからこそ生きているのです。生きているからこそ自我があり、欲があります。
生きているというのは欲心(煩悩)と仏心(菩提心)が交じ合い、心と身(体)があり、それぞれの姿・形として人間らしくいられます。
これらの意味としては煩悩即菩提、心身一如の仏教用語がございます。
心身一如とは心と身(体)は一体のものであり、心があり体があります。故に心が壊れると体も壊れます。
最後に、「受想行識亦復如是」について説いていきます。
「受想行識もまたかくの如し。」と読みます。
上記の通り、「色」について菩薩は説いてきましたが、この「色」は前回にお伝えした五蘊の構成要素の一つです。
そうすると残りの四つの「受・想・行・識」についても省くこと無く説いておられます。
「受・想・行・識も色と同じように空である」と菩薩は説きました。
これを「五蘊皆空」といい、仏教の根本教義の一つとされています。
以上のことから、現代語訳すると「舎利子よ。姿・形あるものは衝撃を加えれば壊れるから仮に存在している。しかし、仮に存在しているからこそ姿・形がある。だからこそ自我や欲あるが、固定的不変的ではない。」
となります。
次回は「舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中 無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明 亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽」
について説いていきます。
即應翠蓮 合掌